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February 21, 2005

『時の流れ』を思う -2-

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(2)生き物の時間感覚
 時間は、この地球上の生物にとって共通の尺度であり、かつ生存続ける限り等しくそれに係わるのであろうか。
大自然のもとで狩や果物の採取、あるいは農耕技術を身につけ農作物を自作していた頃は、1日や1ヵ月と云った繰り返される日常時間の中で生きていた。
 都会のオフィスや工場で働く者にとっては、このような繰り返されるという時間感覚よりも、時計の針がカチカチと時を刻む音で急きたてられるかのように過去から未来へ流れていく直線的な感覚のほうが強いのではなかろうか。 オフィスの1時間は60分、工場の1時間も60分。離れた空間であっても同じ流れで時間は進んでいく。

 色々な時間の中に、生物学的な時間がある。人類は長い間、朝起きて夜寝ると云う生活をしてきた。このような生活のリズムは私達の体に染み付いている。これは地球の自転から決まり、生物に影響を与えている。これが体内時計というものである。出生直後の赤ちゃんには日を単位とした生活リズム(日周リズム)はないが、生後半年程の間に目覚め・寝ると云う日周リズムが確立される。体温は昼高く夜低く、心拍も日中は多く夜間は減少する。
 動物には、冬眠、繁殖行動、渡り鳥などの年周リズムがある、これは地球の公転から来るのであろうか。
自転や公転から決まる周期が生物に影響を与える。これが生物の体内時計と云われるものだ。
 
 生物を観測すると、これら以外に環境とは関係なくながれる時間もある。例えば動物の寿命と体の大きさとの関係である。
 動物は、一般的に体が大きいほど長生きをする。長生きする動物ほど心臓の鼓動周期(心周期)は長くなる、
即ち鼓動がゆっくりとなっている。例えば,象の心臓は3秒に1回、人は1秒に1回、二十日鼠は0.1秒に1回 鼓動する。
 どのような動物でも、概ね心臓が15億回脈打てば寿命になるという。従って、大きな動物ほど長生きすることになる。同じ一日でも象と二十日鼠では、1日の持つ重みが違って来て、二十日鼠にとってはその1日が充実した、しかもゆったりと流れていくのだと思う。

 『幼かったころは、今より時間はゆっくりと流れていた』と感じ、そして『今は何故こうも速く日時は過ぎ去って行くのか』と、多くの人が思っておられるのではないでしょうか。
 この原因について、心理学的には多くの見方がある。
①5歳間までの1年間は、その時点の生涯からすると5分の1の長さである。一方、60歳の人にとっての1年は今まで生きてきた人生の60分の1である。この比率が心理学的に時間評価について大きな影響を与えているという説。
②子供のころは毎日が新しい出来事や新しい人との出会い、まいにち毎日新しい体験を繰り返し、それらが1つ1つ記憶されていきます。しかし、年を取ってからの体験は多くは過去の体験と同じことが多い。そこで大人の場合は、後で思い出そうとしても記憶の量が実質的に少なくなり時間を短く感じてしまうという説。
③コーヒなど興奮作用のあるものを体内に取り込むと、体温の上昇や生理テンポを早くする。そうなると心理的時間は長くなる、即ちゆっくりと流れる時間感覚になるという。
 子供は大人に比べ生理テンポが速いから、時間が長く感じられるという説。

(参考)     『脈拍』          『呼吸数』
      成 人:60~80回/分      16~20回/分
      学童時:80~90回/分      20~25回/分
      乳 児:120前後回/分      30~40回/分
      新生児:130~140回/分    40~50回/分

②や③については、なるほどと納得する面がある。③の加齢に伴なう生理テンポの遅速化は、ある程度の諦めもつくが、②は人間としての鮮度の低下が時間感覚を早めているとも解釈できる、世の中は急速に変わりつつある、好奇心や探究心が失せかけつつある大人は外の変化に鈍感となり、その結果記憶に残るモノが少ないこととなれば時間感覚が速くなる。
 人として鮮度の落ちたモノにとって、この1日、この1ヵ月が速く感じるとすれば本当に悲しいことではないでしょうか。                                   (つづく)

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February 07, 2005

『時の流れ』を思う

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(1) 時間とは何だ
 早いものである、新しい年もはや一月も過ぎ、もう既に立春を迎えた。
なぜ、年月はこうも速く飛び去って往くのであろうか。幼い頃はもっともっとゆったりと流れていたように想う。
年、月、日、時間、分、秒という単位は、その長さ・大きさを変えていないのに、何故こうも感覚が異なり、近頃は時の流れを速く感じてしまうのであろうか。
 時間感覚に関し、分からぬことがもう1つある。それは民族によって歴史をふり返り見る感覚が異なることである。
 かって、もう十数年前の話しではあるが、中国の鄧小平はこのようなことを云っていた。
「中日戦争は、まだ五十年前のことだ。アヘン戦争はすでに百年も前のことであり、もう過去の問題だ。
これに比べ中日戦争は、まだ今日的な問題である」と。

 時間とは、何だろうか? 世代や、民族で何故こうもその感覚が違って来るのであろうか?
過去から現在へ、現在から未来へ、私や私の周りのものを有無を云わせず連れ去ってゆくナニモノかである と思うが、果たしてこのような解釈で良いのだろうか。
古代キリスト教の偉大な教父であったアウグスティヌスは、時間に関し次のように云っている。
『時間とは何かと問われるまでは知っている。しかしいざ問われると分からなくなる』

 元来、人々は時間について どのような意識を持っていたのであろうか。
未開の原始社会では、昼と夜、夏と冬、若さと老い、生と死というように、時間は同じ方向に進み往くというものではなく、繰り返す逆転の反復と考えられていたようである。過去から現在に来て、反復しまた過去に替えると考えていた、そこには未来という概念はなかったとされている。

  多くの哲人や科学者が、この時間に関し色々な見方をしている。
古代ギリシャのプラトンは、惑星が運動する。その運動が時計のゼンマイを巻く動作のように時間を進めている と考えた。太陽、月、星などの天体の運動を規則的に秩序づけ相互関係によって日、月、年を作ると考えた。時間は天体が規則的な循環運動をすることによって成立すると考えた。
 またプラトンの弟子のアリストテレスは、時間と空間は運動の場であり、時間とは運動の先後における数である と考えた。ある事柄Aがある事柄Bを引き起こすとき、Aの方がBより先に起こる。このような関係を先後関係という。近世までは、時間についてこのようが考えが基本的なものであったとされている。

 古代中国ではどのように考えていたのであろうか。中国、周代の占いの書・易経に次のような記載がある。
『日ゆけば月来たり、月ゆけば日来る。日月相推して明生ず。 寒ゆけば暑来たり、暑ゆけば寒来る。 寒暑相推して歳成る』。この記述では、時間は単に循環するのではなく、日、月、四季は繰り返されながらも、そのなかにおける人間の営みは、過去から未来に向かって進みゆくものだと考えられていたようである。即ち時間は循環しつつも螺旋(らせん)階段を上るがごとくスパイラル状に過去から現在、未来へと進むものとされていた

 イタリアのガリレオ・ガリレイが「振り子の等時性」を発見した、以降これを利用して振り子時計が完成した。正確に時を刻み続ける機械時計が普及するに従って、時間は常に一定の速さで流れるというイメージが人々の間に広がっていった。
 イギリスのアイザック・ニュートンは物体の運動を、空間と時間という物差しで客観的に記述した。
空間は無限の広がりをもつ「絶対空間」と、時間は空間のどこでも同じ速さで流れる「絶対時間」という概念を作った。
 この時間はどこでも同じ速さで流れる という見方が、多くの人が持っている時間観ではなかろうかと思う。

 しかし、これでは世代間等で時間感覚に、なぜ差異がでるのかは説明できない。
ドイツの文豪シラーは、『時の歩みは3重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静に立っている』と述べた。このためらいつつ近づく速度、矢のように飛び去っていく速度は、人によって何故受けとめ方が違うのであろうか?                   (つづく)

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