「心残りなこと」
歳月は矢のように飛び去ってゆく。この暮で、母が逝って早や満3年を迎える。時々、思い出す。死とは何だったのだろうか? 母の死と何であるのかと。本当に安らかに往生出来たのであろうかと。
死に顔は、我が母ながら綺麗で安らかあった。でも心底から安らかに往生出来たのであろうかと疑問を抱くようなことが二つあった。
その年の7月から年の暮れにかけ3回にわたり、緊急型大病院に運び込まれ、いづれもICU(緊急治療室)に入れられた。
そのつど主治医から、いわゆるインホームド・コンセプトと称する病状や治療内容の説明、患者側の納得、同意を得る行為が行なわれた。 いづれの場合も患者が90歳であると云う事実と植物人間につながるような意味のない延命装置は要らないと母の意思を尊重し、臨終の時も気管内送管はお断りしていた。
しかし、3回目の緊急入院した昨年暮れ、病状が少し良くなったと思われ夕刻とき、看病していた姉が身の回り品を取りに帰った時、急に病状が悪化し死を迎えることとなった。急を知る病室へ駆けつけてきた姉が目にしたものは、逝ってしまった亡き母の体から喉奥深く差し込まれていた気管を引き出す状況であった。
あれだけ人の尊厳を踏みにじむような延命手段はお断りしていたのに何故気管内挿管が行なわれたのであろうか?
医師の習い性として死に向かう患者に対し無意識的にそのような措置をしたのだろうか? それとも病院の経営方針として過剰な医療を施したのであろうか?
よく分からない。母は臨終の際、必要以上に苦しむことなく往生出来たのであろうか。
さらに、気がかりなことがもう1つある。2回目の緊急入院のときである。病状も幾分か持ち直し、ICUから一般病棟に移った後しばらく経ってからのことである。見舞いに行った私に向い、ベットの上に腰を掛けながら云った。
「○○よ」と私の名を呼び、静かに語り掛けた。「死んだらどうなるのかな~。怖いね」と。
私は、心の中で「アッツ」と絶句していた。母は病弱な父が入退院を繰り返していた昭和30年代前半より40数年間朝晩仏壇の前でお経を唱えていた。
そのようなことである種の死生観なり来世観を持っていると思っていた。そのような期待と私自身がそのようなことについて深く考えたこともなかったので、何一つ応えることが出来なかった。今思うと、残念な悲しいことである。
「男はつらいぜ 寅次郎!」を創ったY映画監督も、92歳の母親から「死んだら、どうなるのかなぁ~」と聞かれ、絶句した と云うような随筆をどこかで目にしたことがある。
死期が近づいた人から、このようなことを聞かれれば私たちはどのような応えをすればよいのだろうか?
このような件に関し、すぐ頭に浮かぶ「詩」がある。宮沢賢治の「雨ニモマケズ
風ニモマケズ」である。そのなかに
「東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を追ひ
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい」 とある。
これは詩でないと云う説がある。昭和8年(1933年)38歳で賢治が逝ったあと、東京や花巻で病気療養中に、その病床で書き付けた小さな手帳が発見され、世間に発表されたものである。それは詩ではなく「金言」あるいは「自戒」を綴ったものであるとされている。
賢治も「行ってこわがらなくてもいいといい」という強い死生観なり、何がしかの力が欲しかったのではないか。詩の最後は
「ほめられもせず
くにもされず
そういふものに
わたしはなりたい」
と結んでいる。
私も母のことを思うと無念至極である。「怖がらなくてもいいといい」と他の人に云えるようになりたい。母の信仰を受け継ぎ、またまた法華経の篤信家であった宮沢賢治にあやかり、絶対肯定の法華経の世界に飛び込みたいと思っている。
経典にある「不到利他」(我到らざるも他を利す)と云う菩薩行を、チョットでも良い、ほんの少しでも善い。積み重ね積み重ねて往けば「怖がらなくてもいいといい」と云う境地に近づけるのではないかと、ほんのぼんやり思っていが、さていかがなものであろうか。

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