June 12, 2005

時の流れを思う‐5‐

(5)時間を意識する
 私たちは何処から来て、何処へ逝くのであろうか。そして、これら生と死を結びつける時間、生から死へと私たちを運ぶ時間とは何なのか?
 しかし、私たちは余りにも楽観的なのか、普段自分の死を意識しない。たとえ親や姉弟が死んでも、その肉親の死を嘆き、別れを悲しむことはあっても、それは人ごとの死であり、その死を我が身に置き換えて、自分もやがて死にいく存在であると云うことを痛切に感じないだろう。まして残された時間などは意識しないものである。
 
 私自身、『あっ、死ぬ!』、『あ~死ぬんだなー』と思ったことがある。
前者の『あっ、死ぬ!』は、昭和55年2月20日午後9時過ぎの京阪電車・枚方駅出発後の脱線・転覆事故である。後者の『あ~死ぬんだなー』は平成2年の春 国立療養所近畿中央病院の肺癌病棟と称される北病棟の2階に入院させられた時である。
 脱線・転覆事故のときは、あっ、死ぬと思った瞬間から数秒して右後頭部を打ち一時意識不明となったので、あれこれと考える時間はなかった。
肺癌病棟である近畿中央病院北病棟2階に入院した時は、30名ばかりの入院患者で、10日に1人の割合で人がお亡くなりになる、病棟を行き来する老若男女の患者達も抗がん剤のためか頭髪がなく40歳代なのか70歳代なのか区別がつかない、週末には小康状態になったためか御自宅で死を迎えるため1~2名の方が退院していかれた。30人前後の病棟であったが人の出入りは多かった。
 ここでは思いをめぐらせる時間は充分あった、当然のことながら自分も間もなく逝くのだろうなと思った。
死のおそろしさと云うよりは、肉親はじめ親しかった人々との別れが悲しく辛くやりきれなく感じられた。
自分の生きて来た50年と残された時間を思い、虚しくも、はかなく感じたものだった。このときばかりは、真剣に時の流れを感じ、時について考えたように記憶している。

 時間とは何か?普段私たちは時間について意識することなく生活をしている、そのくせあと何分だ!などと云って、時計の針に追いまくられるように働いている。コレは何なのか!

 先人たち、とくに哲学者や科学者は、この不可解な時間をどう捉えていたのであろうか?
ギリシャ時代、人々はこの世界は始まりも終わりもなく永遠に続く円環運動として捉えていた。
前述の『時間とは何かと問われるまでは知っている。しかしいざ問われると分からなくなる』と言ったアウグスティクス(354~430)は、キリスト教的な『直線的時間』論を展開した。
 それは、世界は神によって無から創造され終末に向かってゆく、すなわち“天地創造”から“最後の審判と神による救済”に向かって直線的に時間が進んで行くと考えていた。そして、時間は天地創造と共に生まれ最後の審判と共に消滅すると消滅するものと考えていた。
 彼は、時間を現在の私たちと同じく「過去」、「現在」、「未来」と三つに区別した。 
 過去は、人々の精神が「現在」持っている記憶
 現在は、人々の精神が「現在」持っている直観
 未来は、人々の精神が「現在」持っている期待
であると考えた。
時間とは、過去、現在、未来という三方向に分散して延びている人間の現在の精神のあり方だとし、また同時に人間の魂(精神)が永遠なる神の存在を忘却して時間的なものの中に自己を分散させてしまった結果であると解釈した。
我々の精神が時間にとらわれている限り、人間ははかない存在である。だから『永遠』なる神へ魂を集中させることの大切さを説いたのである。

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March 28, 2005

『時の流れ』を思う -4-

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(4)なぜ、時間はながれるのか
 赤ん坊 ⇒ 幼児 ⇒ 少年 ⇒ 青年 ⇒ 成人 ⇒ 高齢者 と云うように、私達は幼から老への一方向に向かってライフ・ステージを駆け上がっていく。このように「過去→現在→未来」という一方向に決まっていて変えられない流れを『時間の矢』という。この矢は、SF映画や夢物語でない限り、老から幼へと流れをさかのぼることは出来ない。
 この世の中には多くの現象があるが、それらは可逆現象と非可逆現象に分けられる。ある現象が起こって、その逆の現象が起こって元の状態に戻ることを可逆現象といい、決して元に戻らない現象を非可逆現象という。
 もしも、この宇宙における現象が全て可逆現象だったら、私達は過去と未来の区別がつくだろうか?
過去と未来の状態に違いがなければならない。いま働き盛りの成人も、かっては赤ん坊であったし、やがて
老人になってゆくのである。
 赤ん坊、成人、老人と云った違いがある、このことを認識することによって時間の流れを感じるのではなかろうか。このように過去と未来の区別が存在して、私たちは『時のながれ』を感じることが出来る。

 ボールを床に転がす、速度はだんだん遅くなって、やがてはとまる。ボールの持っていた運動エネルギーが摩擦熱に変わって停止したのである、このように熱の移動を伴なう現象は、非可逆現象であり元に戻らない。
 テレビ放送局から電波が各家庭に届く、このように電波も光も一定方向に広がって行く。
 生物も社会も進化する、例えば社会は狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会というように未来に向け
よりシステムとして複雑な方向に変化してゆく。これらも、また非可逆現象であり元に戻らない。だからこそ時の流れを感じ、歴史を思うのであろう。そこには『時間の矢』が存在しているのである。

 「過去→現在→未来」という『時間の矢』は、当たり前のようにあるものだと思っているが、それは全くの誤解だと科学者は指摘する。時間が流れるというのは実に不思議なことなのだと。

 物質は、無数の原子や分子から出来ている。これら原子や分子の運動を見て、過去と未来を区別することが出来るのであろうか。
 2つの原子が衝突するする場合、その運動をいくら注意深く観察しても過去と未来の区別がつかないことが知られている。すなわち原子や分子の世界では『時間の矢』が存在しないのである。
 しかし、膨大な数の原子、分子の集まった物質(例えば人間)の運動や活動では、明らかに過去と未来の区別がある。その物質を構成する原子、分子には時間の矢が流れない。
 では、どこで時間の矢が現れるのであろうか?

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March 07, 2005

『時の流れ』を思う -3-

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(3)劫(こう)と刹那(せつな) 
縁あって20歳過ぎ頃から禅に興味をもち、摂津高槻の少林寺に坐禅をしにいったこともあった。そのようなこともあって、たまには経典やその解説書を見ることもあった。その中に興味ある時間を測る単位があった、それは古代のインド人が考えた時間の単位 — 劫と刹那 — であった。
 劫というのは、囲碁用語にもある。取ったり取られたりが永遠に続いてしまう形である、そのようなことを繰り返すと何時まで経っても未来永劫に勝負がつかなくなるので、一度別の所に打ってからしか取れないような囲碁規約がつくられている。

 では古代のインド人が考えた『劫』という単位は、時間のどのような長さなのでしょうか?
岩石で出来たヒマラヤのような大きな山がある、そこへ100年に1回の割合で天から天女が舞い降りてくる、その都度天女が着ている絹の羽衣の裾が岩山に当たる、そのためほんの極く僅かであるが岩が削りとられてしまう。このようなことを限りなく繰り返し、その岩山がすべて削り取られてしまう。この間の時間が、劫というものの長さである。
 絹の衣で岩が削り取られるのか? かりに削り取られるとしても100年に1回である。そのことで岩山が削り取られ無くなってしまうまでの時間というのは想像を絶するものがある。
 古代インドのバラモン教では、宇宙は創造神である梵天によって作られたとされている。その梵天の一昼、つまり梵天が過ごす1日の半分の長さを劫と云っていた。そして、これを人間の年に換算すると43億2千万年に相当する。
 一方、刹那とは極めて短い時間、瞬間で、最も短い時間の単位である。
指を1回パッチンと弾く(1弾指する)あいだに65刹那あるという説や、75分の1秒であると云う説などがある。

 私たち人類は、時間の単位を昔から自然の中にある周期運動によって決めていた。例えば地球が自転して1周する時間を1日、地球が太陽の周りを1周する時間を1年としている。
 私達が日常使う時間の最小の単位である秒は、どのようにして決めていたのであろうか?
近世までは、正午(太陽の南中する時刻)から翌日の正午まで(1日)の8万6400分の1を1秒と定義していた。このように太陽の位置観測で決めた1秒を『天文秒』と云う。(注、8万6400秒=24時間×60分/時間×60秒/分)。
 この天文秒は、天体の運動によって決まるので誤差が無いように思われてきたが、残念ながらそうではなかった。それは24時間×60分/時間×60秒/分のうちの24時間が、必ずしも一定でないということが分かって来たからである。月や太陽の重力で潮の満ち引きが起きるが海水の運動と固体としての地球の動きにずれ(摩擦)が生じて、地球の自転にブレーキがかかり段々遅くなりつつあるということらしい。
 地球の自転速度は5億年前は21時間、現在は24時間、そして10億年後は26時間になるとのことである。

 ガリレオ・ガリレイが振り子の等時性を発見してから振り子やばねを利用した機械式時計が作られ時間を測っていたが、機械式であるゆえに精度に限界があった、1927年カナダのマリソンが水晶時計を発明し、
これによって計時の精度が一段と向上した。それでも1年間に0.1秒程度の誤差が生じている。
 現在では、より精度の高い原子時計が作られている。これはセシウム原子の基底軌道にある電子が、スピンの向きを変えた時に出る電磁波が91億9263万1770回振動する時間を1秒としている。これを『原子秒』という。なお、この原子時計でも300年に1秒程度の誤差が出るといわれている。          (つづく)

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February 21, 2005

『時の流れ』を思う -2-

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(2)生き物の時間感覚
 時間は、この地球上の生物にとって共通の尺度であり、かつ生存続ける限り等しくそれに係わるのであろうか。
大自然のもとで狩や果物の採取、あるいは農耕技術を身につけ農作物を自作していた頃は、1日や1ヵ月と云った繰り返される日常時間の中で生きていた。
 都会のオフィスや工場で働く者にとっては、このような繰り返されるという時間感覚よりも、時計の針がカチカチと時を刻む音で急きたてられるかのように過去から未来へ流れていく直線的な感覚のほうが強いのではなかろうか。 オフィスの1時間は60分、工場の1時間も60分。離れた空間であっても同じ流れで時間は進んでいく。

 色々な時間の中に、生物学的な時間がある。人類は長い間、朝起きて夜寝ると云う生活をしてきた。このような生活のリズムは私達の体に染み付いている。これは地球の自転から決まり、生物に影響を与えている。これが体内時計というものである。出生直後の赤ちゃんには日を単位とした生活リズム(日周リズム)はないが、生後半年程の間に目覚め・寝ると云う日周リズムが確立される。体温は昼高く夜低く、心拍も日中は多く夜間は減少する。
 動物には、冬眠、繁殖行動、渡り鳥などの年周リズムがある、これは地球の公転から来るのであろうか。
自転や公転から決まる周期が生物に影響を与える。これが生物の体内時計と云われるものだ。
 
 生物を観測すると、これら以外に環境とは関係なくながれる時間もある。例えば動物の寿命と体の大きさとの関係である。
 動物は、一般的に体が大きいほど長生きをする。長生きする動物ほど心臓の鼓動周期(心周期)は長くなる、
即ち鼓動がゆっくりとなっている。例えば,象の心臓は3秒に1回、人は1秒に1回、二十日鼠は0.1秒に1回 鼓動する。
 どのような動物でも、概ね心臓が15億回脈打てば寿命になるという。従って、大きな動物ほど長生きすることになる。同じ一日でも象と二十日鼠では、1日の持つ重みが違って来て、二十日鼠にとってはその1日が充実した、しかもゆったりと流れていくのだと思う。

 『幼かったころは、今より時間はゆっくりと流れていた』と感じ、そして『今は何故こうも速く日時は過ぎ去って行くのか』と、多くの人が思っておられるのではないでしょうか。
 この原因について、心理学的には多くの見方がある。
①5歳間までの1年間は、その時点の生涯からすると5分の1の長さである。一方、60歳の人にとっての1年は今まで生きてきた人生の60分の1である。この比率が心理学的に時間評価について大きな影響を与えているという説。
②子供のころは毎日が新しい出来事や新しい人との出会い、まいにち毎日新しい体験を繰り返し、それらが1つ1つ記憶されていきます。しかし、年を取ってからの体験は多くは過去の体験と同じことが多い。そこで大人の場合は、後で思い出そうとしても記憶の量が実質的に少なくなり時間を短く感じてしまうという説。
③コーヒなど興奮作用のあるものを体内に取り込むと、体温の上昇や生理テンポを早くする。そうなると心理的時間は長くなる、即ちゆっくりと流れる時間感覚になるという。
 子供は大人に比べ生理テンポが速いから、時間が長く感じられるという説。

(参考)     『脈拍』          『呼吸数』
      成 人:60~80回/分      16~20回/分
      学童時:80~90回/分      20~25回/分
      乳 児:120前後回/分      30~40回/分
      新生児:130~140回/分    40~50回/分

②や③については、なるほどと納得する面がある。③の加齢に伴なう生理テンポの遅速化は、ある程度の諦めもつくが、②は人間としての鮮度の低下が時間感覚を早めているとも解釈できる、世の中は急速に変わりつつある、好奇心や探究心が失せかけつつある大人は外の変化に鈍感となり、その結果記憶に残るモノが少ないこととなれば時間感覚が速くなる。
 人として鮮度の落ちたモノにとって、この1日、この1ヵ月が速く感じるとすれば本当に悲しいことではないでしょうか。                                   (つづく)

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February 07, 2005

『時の流れ』を思う

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(1) 時間とは何だ
 早いものである、新しい年もはや一月も過ぎ、もう既に立春を迎えた。
なぜ、年月はこうも速く飛び去って往くのであろうか。幼い頃はもっともっとゆったりと流れていたように想う。
年、月、日、時間、分、秒という単位は、その長さ・大きさを変えていないのに、何故こうも感覚が異なり、近頃は時の流れを速く感じてしまうのであろうか。
 時間感覚に関し、分からぬことがもう1つある。それは民族によって歴史をふり返り見る感覚が異なることである。
 かって、もう十数年前の話しではあるが、中国の鄧小平はこのようなことを云っていた。
「中日戦争は、まだ五十年前のことだ。アヘン戦争はすでに百年も前のことであり、もう過去の問題だ。
これに比べ中日戦争は、まだ今日的な問題である」と。

 時間とは、何だろうか? 世代や、民族で何故こうもその感覚が違って来るのであろうか?
過去から現在へ、現在から未来へ、私や私の周りのものを有無を云わせず連れ去ってゆくナニモノかである と思うが、果たしてこのような解釈で良いのだろうか。
古代キリスト教の偉大な教父であったアウグスティヌスは、時間に関し次のように云っている。
『時間とは何かと問われるまでは知っている。しかしいざ問われると分からなくなる』

 元来、人々は時間について どのような意識を持っていたのであろうか。
未開の原始社会では、昼と夜、夏と冬、若さと老い、生と死というように、時間は同じ方向に進み往くというものではなく、繰り返す逆転の反復と考えられていたようである。過去から現在に来て、反復しまた過去に替えると考えていた、そこには未来という概念はなかったとされている。

  多くの哲人や科学者が、この時間に関し色々な見方をしている。
古代ギリシャのプラトンは、惑星が運動する。その運動が時計のゼンマイを巻く動作のように時間を進めている と考えた。太陽、月、星などの天体の運動を規則的に秩序づけ相互関係によって日、月、年を作ると考えた。時間は天体が規則的な循環運動をすることによって成立すると考えた。
 またプラトンの弟子のアリストテレスは、時間と空間は運動の場であり、時間とは運動の先後における数である と考えた。ある事柄Aがある事柄Bを引き起こすとき、Aの方がBより先に起こる。このような関係を先後関係という。近世までは、時間についてこのようが考えが基本的なものであったとされている。

 古代中国ではどのように考えていたのであろうか。中国、周代の占いの書・易経に次のような記載がある。
『日ゆけば月来たり、月ゆけば日来る。日月相推して明生ず。 寒ゆけば暑来たり、暑ゆけば寒来る。 寒暑相推して歳成る』。この記述では、時間は単に循環するのではなく、日、月、四季は繰り返されながらも、そのなかにおける人間の営みは、過去から未来に向かって進みゆくものだと考えられていたようである。即ち時間は循環しつつも螺旋(らせん)階段を上るがごとくスパイラル状に過去から現在、未来へと進むものとされていた

 イタリアのガリレオ・ガリレイが「振り子の等時性」を発見した、以降これを利用して振り子時計が完成した。正確に時を刻み続ける機械時計が普及するに従って、時間は常に一定の速さで流れるというイメージが人々の間に広がっていった。
 イギリスのアイザック・ニュートンは物体の運動を、空間と時間という物差しで客観的に記述した。
空間は無限の広がりをもつ「絶対空間」と、時間は空間のどこでも同じ速さで流れる「絶対時間」という概念を作った。
 この時間はどこでも同じ速さで流れる という見方が、多くの人が持っている時間観ではなかろうかと思う。

 しかし、これでは世代間等で時間感覚に、なぜ差異がでるのかは説明できない。
ドイツの文豪シラーは、『時の歩みは3重である。未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静に立っている』と述べた。このためらいつつ近づく速度、矢のように飛び去っていく速度は、人によって何故受けとめ方が違うのであろうか?                   (つづく)

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December 28, 2004

「心残りなこと」

 歳月は矢のように飛び去ってゆく。この暮で、母が逝って早や満3年を迎える。時々、思い出す。死とは何だったのだろうか? 母の死と何であるのかと。本当に安らかに往生出来たのであろうかと。
死に顔は、我が母ながら綺麗で安らかあった。でも心底から安らかに往生出来たのであろうかと疑問を抱くようなことが二つあった。

その年の7月から年の暮れにかけ3回にわたり、緊急型大病院に運び込まれ、いづれもICU(緊急治療室)に入れられた。
 そのつど主治医から、いわゆるインホームド・コンセプトと称する病状や治療内容の説明、患者側の納得、同意を得る行為が行なわれた。 いづれの場合も患者が90歳であると云う事実と植物人間につながるような意味のない延命装置は要らないと母の意思を尊重し、臨終の時も気管内送管はお断りしていた。
 しかし、3回目の緊急入院した昨年暮れ、病状が少し良くなったと思われ夕刻とき、看病していた姉が身の回り品を取りに帰った時、急に病状が悪化し死を迎えることとなった。急を知る病室へ駆けつけてきた姉が目にしたものは、逝ってしまった亡き母の体から喉奥深く差し込まれていた気管を引き出す状況であった。
 あれだけ人の尊厳を踏みにじむような延命手段はお断りしていたのに何故気管内挿管が行なわれたのであろうか?
 医師の習い性として死に向かう患者に対し無意識的にそのような措置をしたのだろうか? それとも病院の経営方針として過剰な医療を施したのであろうか?
 よく分からない。母は臨終の際、必要以上に苦しむことなく往生出来たのであろうか。 

 さらに、気がかりなことがもう1つある。2回目の緊急入院のときである。病状も幾分か持ち直し、ICUから一般病棟に移った後しばらく経ってからのことである。見舞いに行った私に向い、ベットの上に腰を掛けながら云った。
「○○よ」と私の名を呼び、静かに語り掛けた。「死んだらどうなるのかな~。怖いね」と。
 私は、心の中で「アッツ」と絶句していた。母は病弱な父が入退院を繰り返していた昭和30年代前半より40数年間朝晩仏壇の前でお経を唱えていた。
そのようなことである種の死生観なり来世観を持っていると思っていた。そのような期待と私自身がそのようなことについて深く考えたこともなかったので、何一つ応えることが出来なかった。今思うと、残念な悲しいことである。
 「男はつらいぜ 寅次郎!」を創ったY映画監督も、92歳の母親から「死んだら、どうなるのかなぁ~」と聞かれ、絶句した と云うような随筆をどこかで目にしたことがある。
 死期が近づいた人から、このようなことを聞かれれば私たちはどのような応えをすればよいのだろうか?

 このような件に関し、すぐ頭に浮かぶ「詩」がある。宮沢賢治の「雨ニモマケズ 
風ニモマケズ」である。そのなかに
   「東に病気の子供あれば
    行って看病してやり
    西に疲れた母あれば
    行ってその稲の束を追ひ
    南に死にそうな人あれば
    行ってこわがらなくてもいいといい」 とある。
 これは詩でないと云う説がある。昭和8年(1933年)38歳で賢治が逝ったあと、東京や花巻で病気療養中に、その病床で書き付けた小さな手帳が発見され、世間に発表されたものである。それは詩ではなく「金言」あるいは「自戒」を綴ったものであるとされている。
 賢治も「行ってこわがらなくてもいいといい」という強い死生観なり、何がしかの力が欲しかったのではないか。詩の最後は
     「ほめられもせず
     くにもされず
     そういふものに
     わたしはなりたい」
と結んでいる。

 私も母のことを思うと無念至極である。「怖がらなくてもいいといい」と他の人に云えるようになりたい。母の信仰を受け継ぎ、またまた法華経の篤信家であった宮沢賢治にあやかり、絶対肯定の法華経の世界に飛び込みたいと思っている。
 経典にある「不到利他」(我到らざるも他を利す)と云う菩薩行を、チョットでも良い、ほんの少しでも善い。積み重ね積み重ねて往けば「怖がらなくてもいいといい」と云う境地に近づけるのではないかと、ほんのぼんやり思っていが、さていかがなものであろうか。

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November 22, 2004

「老いを思う」

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 “老い”とは、一体何であるのだろうか?
“おい”は、日本の伝統社会では、“生い”“老い”“追い”という3つの意味を持っていた と言われている。
 一方、現在の中国語中辞典で『老(lao)』の意味を調べると、十数個の解釈があるが、おおまかに集約すると①“いつもの、もとからの”,②“年を取っている”、及び③“歴史、経験をが長い” と3つの意味がある。

 生いは、もと(生まれたとき)からの状態であり、生きている いつもの状況である。 
老いは、年を取っていることである。 
追いは、『泥棒に追い銭』と云うように、追加するという意味であり、人間にとっては経験や智恵を追加し積み重ねていくと云うことである。
 人生は、まさに“老い”への道であり、生きていることが“おい”そのものである。
 老いは、一体いつ頃から始まるのであろうか?
それは、母親の胎内で卵子と精子が出会い受精卵になった時から始まる。受精卵と云う一個の細胞が、数え切れない程の細胞分裂を繰り返す中で、あるモノは神経細胞になり、またあるモノは血液細胞になると云うように役割が与えられ、やがて“赤ちゃん”と云う個体が生まれ出る。
 私たち人間には約60兆の細胞があり、その細胞核には染色体がある。この染色体というのはDNA(遺伝子)が紐状により合わさって出来上がっている。また、そのDNAも二本の紐がねじれ合っている二重らせん構造をしている。つまり染色体と云うのはねじれた二本のDNAが、さらにねじりあがって造られている。
 染色体の両端には、ねじれを留めて解けないようにしているテロメア(末端小粒ともいう)と云うモノがある。このテロメアは細胞が分裂する度に、だんだん短くなっていくことが観察されている。このテロメアが短くなっていく、即ちこれが老化である。20~30歳代の若者のテロメアは、60~70歳代の高齢者のテトロアに比べ1.5倍長くなっていることが分っている。
 テロメアが、細胞の分裂するごとに短くなっていく体細胞によって造られている私たちの身体は、母親の胎内で卵子と精子がドッキングし受精卵が出来た瞬間から、老化し、いずれは死んでいくような仕組みが出来あがっているのである。  まさに“落葉帰根、必死帰土”である。

 されど、“生命は不滅である!”
私たちの身体は、体細胞と生殖細胞によって出来ている。体細胞というのは、神経細胞や血液細胞で、現在を生きるために働いているものである。これに対し生殖細胞は,卵子と精子が受精することによって、明日の世代をつくるために働くものである。
 この二種類のうち、“老い”という変化をとげるのは体細胞のグループのみである。さきに述べた短くなったテトロアを伸長するのはテロメラーゼという酵素であるが、これは生殖細胞を活性化するが体細胞には効き目がない。それゆえ人間という個体は死に到るわけである。
 しかも、生殖細胞の方は,うまく受精すれば次の代の個体として生き延びていくことができる。体細胞には必ず死があり、生殖細胞はうまく次から次へと世代間をバトンタッチ出来れば、永遠に生き長らえることが出来るわけである。

 ここまで書いてきてふっと思い出されるのが、中国に古くからある道教や儒教の死生感であり、“孝”の概念である。
 両親から受け継いだ個体は『身体髪皮これを父母から授く、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり』と大切に扱い、良き配偶者と出会い子を授かる。
そして、死ねば個体は魄(はく)として墓地に葬られ、魂(こん)は個体から抜け出て大地と天の間の空間をさ迷う。子や孫が墓前や祭壇で香を焚き祈りをささげる。すると魂と魄が合体してしばし生き返り懐かしい子や孫に出会えるという----。
 孔子の孝の概念は、親から受け継いだ体を大切にし、子をもうけ子孫を絶やさない。そして代々生を受け継いだ祖先を大切に祭り、この世に呼び戻す。そうすることにより家族・親族を中心とする命の連続性を信じ確認することであろう。
 また生命の連続性を信じ、それにもとづく祭事を行なうことによって、死の不安や恐怖を和らげ、克服するということにも繋がっているのである。 
 このような死生感は、上で述べた生殖細胞が不滅だと云うことと照し合わせて見て、大変興味深いものがある。


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November 19, 2004

「あなたの心にそっと触れさせていただきます」

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あるとき、珍しい挨拶言葉にであった。 「イ ラン カラプー テー」という。この挨拶は、「あなたのこころにそっと触れさせていただきます」という思いを表したものであるとのこと。
アイヌの人々が、初めて出会った人に必ず交わす挨拶である。やさしい気持ちの籠った挨拶であると思う。
 
 新しいものとの出会い、ことに人との出会いほど愉しいものはない。
そのような愉しい出会いは、「ハロー」「グッバイ!」だけのものではなく、またミートと訳せるようなものではない。
 出会いには、親と子の出会い、男と女の出会い、師と弟子との出会い、いろいろな出会いがある。
私のようなシニアにとって、なんといっても愉しいものは仲間との出会い、新しい友との出会いである。

 「彼とはチョットした出会いよ」「出会い系サイト」など、出会いは、何かロマンティクな甘いモノを連想しがちだが、果たしてそうなのだろうか。
ある哲人は、この出会いを「クロス・エンカウンター」と云った。エンカウンターには、偶然の出会い と云う意味のほかに、困難や敵に遭遇すると云う意味も含まれている。 クロスには、十字架や踏み切りの他に、試練、受難、苦難などの意味もある。
 出会いとは対峙する二人の人間の係わりようである。こころ引かれ相手の胸に飛び込んでいこうとする心と、そうはさせまいとする心との間の執拗な戦いであるというと云う人もある。

 しかし、還暦をすでに過ぎた今では、もうこのような己が心と心が戦うことには、もう疲れきってしまた。
「イ ラン カラプー テー」というような魂と魂が少し触れ合いような出会いがよい。
 パソコン通信のフォーラムやインタネットのホームページでの掲示板で、見知らぬ人々と意見を交わす、いろいろなテーマについて討論・意見交換を繰り返していく内に、その人柄や人生観が分かって来て、数十年来、往き来した友のようになる。
そのような人とオフで地上で出会うと懐かしさの余り抱き合ってしまうことがある。まことに愉快なひとときとなる。ネットワーク上のお付き合いが、オフ(ネットワーク外)の愉しい出会いに変わってしまう一瞬である。

 また、地上での付き合いでは、ワイワイがやがやと喋りながら、お互い過去のことには触れず、ちょっと相手の心に触れるような、そんな気のする付き合いがよい。
 ここ数年、ココロザシと世代をほぼ同じくするヴォランティア仲間で、お互いに「イ ラン カラプー テー」と云いあえるような友人が数名出来た。なんとなく嬉しいものである。
 そして、またまた『あなたの心に触れさせていただきます』といえるような新たな友に出会いたいものである。

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November 16, 2004

猿になった日本人?

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馬鹿な!猿と人間は共通の祖先を持つとは云え、いまさら人が猿になる筈がないではないか。では、なぜ猿になったと云うのか。 霊長類の研究者によれば、ニホンザルはその行動を観察するかぎり死を認識出来ないらしい。
 一方,ネアンデルタール人が住んでいたと推定される洞窟に多くの花々を供えた墳墓があったこと、五十万年以上前の原人のものとされている宮城県の上高森遺跡からは、花弁状に並べられた石斧が出土したりすることから、考古学者はこの頃には人類は既に死を認識していたと見なしている。
 しかし、現在の日本人は死を認識しているのだろうか。自分たちが死なねばならないと云うことを忘れ去っているのではないだろうか。

 私達は、いったい、いつまで生き長らえるのであろうか。かって、ある先達は、
『老いの坂 のぼり登りて跡見れば
          あとの遠うさや 先の近さや』(読みびと知らず)
と詠んでいる。
 WTO(世界保健機構)は、加盟192カ国の平均寿命を毎年発表している。2002年の統計では、日本は男女計の81.9歳であり、世界1平均寿命が高い(男78.4歳、女85.3歳でいづれも世界一、また健康寿命も75.1歳で世界一)。
 日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、第二次大戦後である。明治20年代は、男が43歳、女が44歳。昭和9年は男が44歳、女は47歳であった。 戦後10年の昭和30年には男が50.6歳、女が54.0歳とな
った。そして、昭和63年には、男75.5歳、女81.3歳となっている。
 近世では、日本人の寿命はどうだったのか。ある研究者が飛騨地方の、ある村落のお寺の過去張から、1771年から約百年間にわたる平均寿命を算出したところ、男は28.7歳、女は28.6歳となっている。このように寿命が短かったのは幼児死亡率が高かったうえに、食糧事情や衛生状態が悪かったからなのであろうか。
 “いのち”の長さを、文人を例にして見るならば、江戸前期の井原西鶴は51歳で、後期の松尾芭蕉は50歳で逝っている。
 明治に入ると樋口一葉はわずか24歳で、石川啄木も26歳で逝っている。芥川竜之介は35歳(自殺)、夏目漱石は50歳で、そして森鴎外はやや長く60歳で亡くなっている。

 このように、第二次大戦期までは日本人の平均寿命は50年にも達していなかった。 しかし、今や人生80年超の時代である。この延びた30年と云う期間はいったい何であるのか。特別に長生きした人達を除いては、私達の祖父母或いは両親達が経験したことのない時間である。いま、熟年者にとっては『あとの遠さや 先
もなお遠き』の状況である。
 戦後、私達日本人は、戦勝国アメリカ、豊かな国アメリカに憬れて、民主化、封建制打破を叫び、一方産業面では更なる近代化を推し進め、アメリカと肩を並べる経済大国になった。そして、その結果工業化、都市化に伴なう農村の凋落、また家族制度の崩壊による核家族化、小子化が進展していった。
 しかし、そこには近世において概ね50歳を過ぎると隠居し村落においてモメゴトを調停し、気象異常時等に若人たちの相談にのっていた、いわゆる老人たちの役目は喪失してしまっていた。
 また、家庭にあっても孫(主として、長男夫婦の子供達)にお伽話などを語り聞かせ、立ち振る舞いなどの躾(しつけ)を行なっていた祖父祖母の役割も失せていた。

 このような産業面、家庭面の変化に関連し、もう一つの変化を私達は見逃してはいないだろうか。
 それは、“生命観”の変化ではないだろうか。かって年長者は、翁や媼(オキナやオウナ)として尊ばれ、年いかない子供達も大切にされ躾られていた。 今や、老人達は無力な者、醜悪なモノとしてと遠ざけられ
るつつあり、子供達の躾は家庭では放置され、教育ママと呼ばれる人からは“勉強せよ”“塾へ行け”と尻をたたかれ、そのくせ子供達の躾はすべて学校に委ねられている。 いまや私達が、知らず知らずのうちに身につけてしまったのは、かって狩猟民族であったアングロサクソンの “若さを賛美し老いを恥とする”生命観ないしは人間美の観念であろう。それは、集団の先頭に立って獣に挑む若者のイメージであり、太陽のもと汗でギラギラ輝く肉体であり、猛禽のような鋭い目である。また、女もホルスタインの雌牛のような豊頬な肉体がもてはやされる。
 そこには、長幼に対する想いなどはなく、すべて性的能力に結びついた美的感覚が存在するだけである。まして、死を連想するようなモノは微塵も見られない。

 かって、日本人は種をまき、花を咲かせ、その草花が秋の終りには虚しく枯れ果てていくことを毎年経験して来た。ヒヨコを飼い、成長したメンドリからは貴重な蛋白源である卵を毎日のように得ていた。卵を産まなくなったメンドリは絞め殺され、人たちの食卓に上る。枯れゆくもの、殺されるモノ、死んでいくモノを日常のなかで見聞きして来た。
 人々にとって、生や死は身近なものであった。弟あるいは妹が、隣の部屋で産婆さんにに取り上げられ生まれ出る、オギャーという産声を好奇心と、なにか新しいものに出会える
と云う興味心で、聞き耳を立てて聴いていたものだった。 お年寄りが病になって床に伏す、家族が代わり変り面倒を見る。しかし、その看護も薬石も効なく、やがて息を引き取っていく。そこには、老いゆく姿、死を見つめる幼い孫達の姿があった。

 このような状況は4、50年前のことであって、いまは医療技術や施設の発達したこともあって、出産も、老人の治療そして最後を看取ることも殆ど大部分が病院で行なわれている。
 私達は、生の現場、死の現場から隔離されて久しい。たとえ、親族友人や会社関係の知り合いが亡くなっても、ただ葬儀という儀式に参加しているだけである。

 このような生活環境の変化、モノの豊かさに向け経済大国になるまでにガムシャラに働いてきたこの数十年間、その間に先に述べたように生命観等の変化もあった。
そして死へ認識が薄れ、意識的にも死を忌避しようとし、その結果死を忘れ去っているのではないか。まさにニホンザルにまで落ち果てたのである。

 水や空気のように、私達の命は使い放題なのであろうか。他人の死などをみて、死をわかったように思っているが、それは他人の死であり、まくまで人様の死である。
自分は遥かかなたの何十年先まで生きると思っているのであろう。このような思いは、生に対する傲慢さを産み、自分の生に対する配慮を欠き、生を浪費するように自らを追いやっている。ましてや他人に対する思いやりなどは出て来る筈はない。最近各地で起こっている無関係な人を殺傷する事件などは、生や死に無関心なコトの1つの結果ではなかろうか。

 死を見つめるコトは、生を見つけることである。人生を見つめなおし、やり直す切っ掛けでもある。また幅広い生命観や多様な美的感覚を持つことに繋がるものであると思う。
 明日、いや今宵逝くかも知れない この命、いやいや まだ果てしなく続くかも知れぬ生涯の長き道。
 もしもその道が続くならば、爽やかに明るく自分なりの歩みで、進んでいきたいと思う。 

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