時の流れを思う‐5‐
(5)時間を意識する
私たちは何処から来て、何処へ逝くのであろうか。そして、これら生と死を結びつける時間、生から死へと私たちを運ぶ時間とは何なのか?
しかし、私たちは余りにも楽観的なのか、普段自分の死を意識しない。たとえ親や姉弟が死んでも、その肉親の死を嘆き、別れを悲しむことはあっても、それは人ごとの死であり、その死を我が身に置き換えて、自分もやがて死にいく存在であると云うことを痛切に感じないだろう。まして残された時間などは意識しないものである。
私自身、『あっ、死ぬ!』、『あ~死ぬんだなー』と思ったことがある。
前者の『あっ、死ぬ!』は、昭和55年2月20日午後9時過ぎの京阪電車・枚方駅出発後の脱線・転覆事故である。後者の『あ~死ぬんだなー』は平成2年の春 国立療養所近畿中央病院の肺癌病棟と称される北病棟の2階に入院させられた時である。
脱線・転覆事故のときは、あっ、死ぬと思った瞬間から数秒して右後頭部を打ち一時意識不明となったので、あれこれと考える時間はなかった。
肺癌病棟である近畿中央病院北病棟2階に入院した時は、30名ばかりの入院患者で、10日に1人の割合で人がお亡くなりになる、病棟を行き来する老若男女の患者達も抗がん剤のためか頭髪がなく40歳代なのか70歳代なのか区別がつかない、週末には小康状態になったためか御自宅で死を迎えるため1~2名の方が退院していかれた。30人前後の病棟であったが人の出入りは多かった。
ここでは思いをめぐらせる時間は充分あった、当然のことながら自分も間もなく逝くのだろうなと思った。
死のおそろしさと云うよりは、肉親はじめ親しかった人々との別れが悲しく辛くやりきれなく感じられた。
自分の生きて来た50年と残された時間を思い、虚しくも、はかなく感じたものだった。このときばかりは、真剣に時の流れを感じ、時について考えたように記憶している。
時間とは何か?普段私たちは時間について意識することなく生活をしている、そのくせあと何分だ!などと云って、時計の針に追いまくられるように働いている。コレは何なのか!
先人たち、とくに哲学者や科学者は、この不可解な時間をどう捉えていたのであろうか?
ギリシャ時代、人々はこの世界は始まりも終わりもなく永遠に続く円環運動として捉えていた。
前述の『時間とは何かと問われるまでは知っている。しかしいざ問われると分からなくなる』と言ったアウグスティクス(354~430)は、キリスト教的な『直線的時間』論を展開した。
それは、世界は神によって無から創造され終末に向かってゆく、すなわち“天地創造”から“最後の審判と神による救済”に向かって直線的に時間が進んで行くと考えていた。そして、時間は天地創造と共に生まれ最後の審判と共に消滅すると消滅するものと考えていた。
彼は、時間を現在の私たちと同じく「過去」、「現在」、「未来」と三つに区別した。
過去は、人々の精神が「現在」持っている記憶
現在は、人々の精神が「現在」持っている直観
未来は、人々の精神が「現在」持っている期待
であると考えた。
時間とは、過去、現在、未来という三方向に分散して延びている人間の現在の精神のあり方だとし、また同時に人間の魂(精神)が永遠なる神の存在を忘却して時間的なものの中に自己を分散させてしまった結果であると解釈した。
我々の精神が時間にとらわれている限り、人間ははかない存在である。だから『永遠』なる神へ魂を集中させることの大切さを説いたのである。




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